はじめの一歩4月号(通算第97号 )
『おじいちゃん』
荒木絵里香
私は結婚するまでの25年間、おじいちゃんと一緒に暮らしていました。
父母、弟2人、祖母との7人家族。毎日家の中では会話が飛び交う、一言言えば十言くらい返ってくる・・・うるさいとさえ感じる環境で育ちました。
学校や仕事から帰ってくると、家には電気がついていて、必ず「おかえり」という言葉を返してくれる人がいて、誰もいない家に帰るなんてことはほとんどありませんでした。両親が帰ってくるまで、おじいちゃんやおばあちゃんとお茶をしたり、ご飯を食べたり・・・小さい頃からそれが当たり前で、寂しいと思ったことは一度もありませんでした。結婚して実家を出てから、うるさいくらいのその環境が、どれほど温かく、幸せなことだったのかということをよく感じています。
おじいちゃんは、真面目で几帳面。負けず嫌いで努力家。曲がったことが大嫌いで、真っ直ぐすぎる人でした。自分の考えを曲げようとせず、頑固という言葉が一番似合う、そんな人でした。そんなおじいちゃんでしたが、初の内孫で女の子だった私にだけは少し甘いように感じていました。こんな特権、私にしかありませんでした。だからこそ、私だけはおじいちゃんに冗談も言えたし、みんなが言えないようなことも私だから言えるなんてこともよくありました。
15年くらい前のことです。家族で焼肉を食べに行った時に、おじいちゃんは「死ぬ前にはここの肉が食べてぇーなぁ」そう言いました。私は「いや、まだまだ死なないし!まぁその時には私が食べさせてあげるよ!笑」そんなことを冗談交じりに言いました。家族から「おじいちゃんにそんなことを言えるのは絵里香くらいだよ!笑」この時に限らず、そんなことをよく言われたものでした。
2年前くらいからでしょうか。おじいちゃんは足腰が悪くなり、自分の力では立ったり歩いたりすることができなくなってしまいました。リハビリ施設に入り、自宅で過ごすことが出来なくなりました。それでもおじいちゃんは、リハビリを積極的に受け、毎日密かに一人で歩く練習をし、諦めませんでした。施設に入ってから半年後くらいに、「秘密の特訓の成果を見せてやる。」そう言って、手すりを使って自分で立ち、ゆっくり歩けるようになった姿を見せてくれました。この努力は本当に計り知れないものだったと思います。歩けない自分が悔しくて、1日でも早く自宅に帰りたくて、毎日毎日努力をしていたのだと思うと、本当におじいちゃんはすごい人だなぁと思いました。
「もう少しで家に帰れるね!」そんな話をしていた矢先に誤嚥性肺炎にかかってしまい、また動けなくなってしまいました。もう少しで家に帰れるはずだったのに・・・あんなに頑張ったのに・・・それは私でさえも悔しくなるほどでしたので、おじいちゃんにとってはもっともっと悔しかっただろうな・・・それからおじいちゃんは、あっという間に動けなくなり、ご飯も喉を通らなくなり、話しかけても反応がなくなり・・・みるみるうちに痩せてしまいました。あんなに大きくて、たくましかったおじいちゃんが、こんなに小さくなってしまって・・・私はいつもおじいちゃんの前で涙をこらえるのが精一杯でした。
2015年1月1日。おじいちゃんがこの世を旅立ちました。88歳。
「元旦なんておじいちゃんらしいよね。絶対この日を選んだんだよね。」みんな口を揃えて言いました。頑固で意地っ張りだけど、本当はずごく寂しがりやで気遣いをするおじいちゃん。元旦は、毎年家族一同が集まり賑やかになる、集まりやすいこの日を選んだんだろうな。私もそう思いました。人の旅立ちというものは、辛く悲しいことだけれど、そこには必ず何かを教えてくれたり、学びを残してくれているのだと思います。私はおじいちゃんから、家族の温かさ、諦めないこと、努力をし続けることが大切なんだ。そんなことを教わった気がします。
亡くなる前にあのお店の焼肉を食べさせてあげたかったな・・・それだけが悔やまれます。
お通夜や告別式には本当に沢山の方に参列して頂きました。それを見て、おじいちゃんの人柄もそうですが、子である父や叔父・叔母の偉大な姿も感じることができました。おじいちゃんがいなければ、間違いなく今、私はいなくて。おじいちゃんと一緒に暮らしていなければ、家族の温かさを感じる事や今の私の考え方は生まれなかったかもしれない・・・おじいちゃんの死からこれほどいろいろな事を考えることもなかったと思います。
沢山のことを教えてくれたおじいちゃん。本当にありがとう。これからはお空から見守っていてね。